入社当時全くできなかった英語。しかしトーストマスターズで与えられた機会を逃さずに英語を磨き、今や会社をそして日本を代表するエンジニアとして国際規格制定のために世界を飛び回る毎日。そんなエンジニアKさんのお話です。
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「ベラベラ語ってんじゃねーよ。技術屋は黙って良いものを開発すりゃ良いんだ!」
心身共にフレッシュマンだった私を一蹴する上司に私の心は固まりました。
今から約25年前、1990年前後は、バブル景気の真っただ中、日本の製造業は右肩上がり。
私は、ある日系企業の研究所に配属され、通信やエレクトロニクス機器に使われるデバイスの開発を行っていました。
上司は日本のモノづくりに携わってきた典型的な昔気質のエンジニア。当時は、テレビ、ウォークマン、ハンディカムなど、メイドインジャパン家電製品が世界中を席巻。そう、自ら語らず、考えず、疑問を持たず、ただ黙々と働くことで間違いなく日本中が幸せになれた時代でした。
実は私、英語が嫌いで選んだ理系。でも世の中は優しくありません、英検二級取得の会社規定がいつまでも遥か遠くに見えていました。英検の問題集は、全く興味が湧かなかった学校英語を思い出させて、いつまでたってもやる気が出ない。それでもギリギリクリアした時、共同研究の提携先、ドイツのメーカーへ2週間出張しました。
言葉は半分、でも世界をもっと知りたいという好奇心が暴走し、なんと数ヶ月後には外資系の企業に転職してしましまいました。
新しい会社、そして海外出張の英語にも慣れた頃、上海工場の教育係を命ぜられ、毎月訪問して専門分野のワークショップをしていました。
いつも他愛もない話をする間柄なのに、みんなつまんない顔で私の話を聞き、半分は寝ている。なぜ!?英語が話せることと、人前で話すことのスキルの違いに気づいた瞬間です。
2005年末に英語トーストマスターズクラブの門を叩き、翌年Competent Communicator賞(入会して取り組むテキスト指定の10の課題に準拠したスピーチを行うと与えられる賞)、その翌年毎にVPPR(所属クラブの広報宣伝担当副会長)、President(所属クラブの会長)、Area Governor(4つから6つのクラブをサポートを行うリーダー)と周囲の支えに恵まれました。
そしてDivision Governor(4つから6つのエリアをサポートするリーダー)を半分過ぎたコンテストシーズンに、東日本大震災。私のDivision、そして私の故郷、福島。
急遽、翌日のArea Contestの延期、東日本各地のクラブの確認と、多くの仲間たちの連携で何とか乗り切りました。でも、余震、計画停電、福島第一原子力発電所の状況から主催クラブとして関わっていた2011年春季全国東京大会は中止。仲間とともに無念の涙を飲みました。
一方、あんなに苦手だった英語。入会時の目標、英語スピーチだけでDTM(トーストマスターズの教育プログラムで求められるすべてのスキルを取得した人に与えられる最高位の賞)を取得。これはその後の人生の力になっています。
2012年、リストラに遭遇しながらも国内外の仲間からのエールで何とか会社に留まり、それまで4人でやっていた仕事をひとりでやらざる得なくなりました。退職を余儀なくされた同僚、そして震災復興に頑張る友人知人のことを考えると辛いとは言えません。
研究開発、業界団体委員、国際規格委員を掛け持ち。そしてあんなに苦手だった英語で、毎週のグローバル会議。ほぼ毎月の海外出張。なんで私にできるのかふと不思議に思うことがあります。
その外資系企業にこの3月で勤続20年、人生は本当に不思議です。さらに不思議なのは、新たなドリームを叶えるため、50歳をとうに過ぎて仕事を持つかたわら再び学業にも足を踏み入れてしまいました。
Toastmasters、日本に居ながらGlobal普遍のコミュニケーション、そして発信する力が身につく道場。
10年前まで、テレビ、パソコン、携帯電話のコマーシャルがTVを賑わせていた。でも、最近は見ることはない。日本があんなに得意だったエレクトロニクス産業、会社ごと海外に売られる時代。
今、エンジニア、そしてそれぞれの仕事や暮らしの中で、日本、そして世界に向けて「私たちの技術、産業、文化は素晴らしいんだ」と自ら発信しないと何も始まらない。
自身が、地元が、そして日本が、今一歩踏みだせるように、自らを、自らの言葉で、自ら発信する。Toastmastersでパブリックスピーキングを学ぶ私たちのもうひとつの使命だと噛み締めています。